MJ30周年記念特別企画 採用情報 ポスプロQ&A スタッフルーム 新人インタビュー 社員インタビュー 社長インタビュー 社内動画コンテスト youtube blog

目次
北澤部長ロングインタビュー
vol.1 今年度の新卒採用活動を振り返る
vol.2 北澤部長自身の就活、MJの社長との思いがけない出会い、MJの創世記について
最終回 MJの未来に向けての展望等

森田社長のポスプロ業界今昔物語
vol.1 業界デビューから日本初のポストプロダクション パールスタジオ入社まで
vol.2 当時の編集システムは?ー2インチVTRから1インチVTRへー
vol.3 ポスプロ元年到来 そして最盛期を支えてきた機材達
vol.4 数々の人気番組を手掛けたパールスタジオ時代の裏話
vol.5 高視聴率の秘密と驚きの編集スタイル
vol.6 画期的手法!同ポジ編集
vol.7 ハサミとノリのテロップ編集からデジタル編集への大変革期
vol.8 人間シンクロナイザーって何!?

北澤部長ロングインタビュー vol.1

MJ30周年特別企画を3回にわたってお送りします。
第1回目は、北澤部長に今年度の新卒採用活動を振り返っていただきました。
インタビューに答える北澤部長

北澤孝司・・取締役、映像技術部部長、ビデオエディター
会社がまだMJと名乗る前の森田事務所の頃、入社。それから常に第一線で活躍を続け、会社を発展させた大功労者。
現在も尚、トップエディターでありつづけながら、若手の育成にも力を注ぎ、社内外からの人望も厚い。

■全く苦労しなかった今年の採用活動。その訳は‥・

MJは最初から応募が沢山あったわけではなく、ここ数年でやっと選ばせて頂ける立場になった訳ですが、
今年はホームページを見てくださってる方が非常に多く、専門学校からの紹介だけでなく、大学生や美術系の学生からも応募頂きました。応募の幅が広がったと感じました。
番組のエンドロールに社名を必ず載せることで、MJの認知度が少し高まったのかもしれませんね。

■初めての試みで、現場のスタッフによる面接を取り入れる。

今回初の試みで、企業説明会に、世代バラバラで、説明会未経験のスタッフに行ってもらいました。
また、入社後一緒に仕事をすることになる現場のスタッフに、面接に加わってもらいました。

■TVからの問題をだしにくくなった。

試験問題は、JPPA(日本ポストプロダクション協会)の問題集を参考にしたり、一般教養は私がつくりました。工夫は時事問題を出すこと。TVからの問題は、TVを見ない子が増えたので出しにくくなりましたね。

■「私の推しを紹介してください」

今年の作文課題なのですが、私が考えました。その人が何が好きかがわかるし、文章力も見極めやすいと思いました。

■まずは人柄。その次は?

面接では私は、重点的に人柄をみるようにしました。また何を頑張ってきたのか、それを持続できてるのかを聞きました。飽きっぽいのは仕方ないかもしれませんが、物事を突き詰めてから飽きるのか、ちょっとやって出来ないから放り出してしまうのとでは、随分違いますからね。

■スタッフ面接でみた優しさと入念さ。

編集スタッフは、場を和ませ、学生を緊張させないようにしながら、素顔を引き出そうと努力していました。
また、MAは今年初めて新人を採用するのですが、スタッフが実に入念に質問内容を練っていて、こちらが参考にさせてもらいたいくらいでした。それぞれに上手だなと思ったのは、就活生をリラックスさせる雰囲気作りです。そういうところがMJスタッフの優しさだと思いました。

インタビューに答える北澤部長

■TVは観ません!?

今年の就活生と例年との違いで1番印象的だったのは、TV番組を編集している会社に受けにきているのに、私はTVはあまり観ません!と言い切ってしまえる人がいたことです。
うちでやっている番組を何一つ知らないと言う人もいました。
また、大学生と専門学校生では、受け答えなどに、やはり2歳の年の差を感じましたね。

■社会に出るということは、お金をもらうプロになるということ。

学生時代は、バイトをしっかりやったり、遊びたければ思いっきり遊んでいいとおもいます。技術的なことは会社に入ってから覚えていってもいい。でも、社会に出て就職するということは、働いてお金をもらうプロになるということ。バイトとは違うんです。そのことを就活する時にしっかり認識してほしいなと思います。

■今年の採用活動は成功!来年も!

今年の総括としては、本当にたくさんの優秀な方々にご応募頂いて、選考は大変難航しました。結果的には、タイプの違う3人を採用でき、成功だったと思います。でも、反省点もあるのでそれを踏まえて、来年はより良い試験や面接ができるように努力していきます。今後も大学や専門学校へのアプローチ、ホームページ、SNSなどの発信を通じて、来年度もまた沢山の方に応募していただけるよう頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いします。

■ありがとうございました。

次回は、北澤部長自身の就活時代、MJの社長との出会い、MJの創世記の話など、見逃したら損!の面白い話が盛りだくさんです!

北澤部長ロングインタビュー vol.2

■今回は 北澤部長自身の就活、MJの社長との思いがけない出会い、MJの創世記について伺いました。就活も時代によって違って、学生にとって楽な年も苦労する年もあります。北澤部長ご自身の就活は大変でしたか?

それが…これは本当に載せて欲しくないのですが (でも載せちゃいました!笑) 全く苦労しませんでした! 最初の会社も、親がそこの空調設備をやった縁で、社長と知り合いになり、頼んで入れてもらったという感じで(笑)
この業界も知らず、こんな仕事があることも知らず、パソコンを触ったこともなかったんです。

■え?そうだったんですか!?でも、最初の最初で天職にめぐりあったわけですよね?すごい強運です!

ここは中々ユニークな会社で 私は3年いたのですが、 1年ごとに社長が変わっていました(笑)

インタビューに答える北澤部長

■でも、そこでもメインエディターとして活躍されていた。何がきっかけで、MJの社長と出会ったのですか?

入って2年目かな?人手不足で会社がフリーの人を呼ぶようになり、そこにMJの社長が来てくれて初対面で「うちに来ない?」と誘われました。

■そ、それは反則ですね(笑) でも、社長が人を見る目があった!ということで許してあげてください(笑)

いえ、いえ。あの時誘われて決心して本当によかった!と、ここ数十年思ってます(笑) でも、その時はとても会社を辞められる状態ではなくて、それから1年目に「あの話まだ生きてますか?」と、社長に話したんです。

■そのきっかけはなんですか?

社長の笑顔が可愛かったことかな(笑) それと、この人についていったら何か面白そうだなと思ったこと。 結婚を考えていたので、環境を変えたかったことです。

■まだ、スタジオを持っていなくて、派遣だけをやっていた森田事務所の時代ですね。

事務所が原宿にありました。 社員も5、6人くらいでしたね。 派遣として色々なところに行きましたが、中でも山梨テレビの仕事は、今まででも、1番ハードでした。 実働が5、6時間しかないのに 通勤時間が往復6時間以上でしたから(笑)

■何かその頃の面白い話はありますか?

前の会社でアシスタント経験がないので、1年はアシスタントとしてやらせてくださいとお願いしたのに、社長に付いたのが1回だけで、後は最初からメインとしてやらされました。日本テレビの『おもいっきりテレビ』の編集に行った時、先輩が「あなた、できるんでしょ?」とアシスタント席に座ってどいてくれなかったのが、すごく衝撃的でした(笑笑)

■後にイマジカ、オムニバスジャパン等大手の編集スタジオに派遣に行くようになって、そして四谷三丁目に最初のスタジオを持つことになります。森田事務所が現在のMJに成長し、来年は30周年をむかえます。長続きした原因はなんだと思いますか?

便利な機械が出来てどんどん編集時間が短くなる中、社長が新しいことに常に挑戦して、スタジオを広げていったことと、要所要所で優秀な社員やフリーの方が現れてくれたこと。 若手が育ってきたこと。 MAを作ったことで本当の意味でポスプロに(ポストプロダクション)なったということだと思います。私自身もこの歳まで編集を続けているとは思いませんでした。

■北澤部長がエディターとしても第一線で活躍し続けている秘訣を教えてください。

仕事の前には早く寝る!8時間寝ないと徹夜はできません! それと、新しい物を作り出す仕事なので、常に探究心を忘れないこと。 あと、この仕事はサービス業でコミニュケーションが命なので、ひそかに話術も勉強してます。

■人知れず努力をなさってるということですね。 と、こんなところで、また次回に続きます。最終回は、 テレビや映像業界の未来についてや、 MJのこれからについて 語ってくださっています。 どうぞお楽しみに!!

北澤部長ロングインタビュー 最終回

MJ30周年企画北澤部長インタビューも最終回をむかえます。
変化していくテレビ業界の中で MJの未来に向けての展望等 伺いました。

インタビューに答える北澤部長

■昔は人気のあったテレビ業界も、今はテレビを見ない人が増えて慢性的な人材不足ですが?

それでも、MJに来たいと思ってくれる人は何人かいます。その人達がこの仕事って楽しいな、MJっていい会社だな、と思ってくれるような環境をつくりたい。

■具体的には?

例えば大手だと、辞めることを前提に沢山採用したりしますが、沢山の中で当たりを探すのではなく、採用した子、その子達全員を最後まで面倒をみたい。そして、全員に楽しいとか、いい会社だとか思ってほしい。そういう育て方をすることで、本当にいい会社になっていくと思うし、その子達が歳を重ねたら、同じ考えで後輩を育ててほしいです。

インタビューに答える北澤部長

■会社としては未来に向けて、どんな人材がほしいですか?

人柄はもちろんですが、要所要所でリーダーシップが取れる人が必要になっていくと思います。 人が増えて会社が大きくなるにつれ、いつまでもみんなが仲良しだけではやっていけないので、自分たちの意見をまとめて会社に伝える、会社からの意見や要望も的確に同僚に伝えられる、そんなリーダーシップが大切になると思います。

■テレビはどんどん衰退していくという見方もありますが?

自分がテレビ世代だし、テレビっ子だったので、勢いを取り戻すと信じてますが、今はちょっと元気がないかもしれません。
ただ、これがずっと続くとは限らないし、映像を作るということは無くなりません。その中で、会社としてどう生き残って行くのか、時代の変化に合わせて考えていかなければと思います。採用に関してもテレビを全然みません!と言い切る人が採用試験を受けに来る。このような現実に対応するには、応募要項も考え直さなければいけないのかなと思っています。

後輩に指導する北澤部長

■では最後に エムジェイの新人さんや後輩にむけてメッセージをお願いします。

私はこの仕事を始めてから一貫して 「この仕事を大変だと思ったことは何回もあるけど、嫌いだとおもったことは一度もない。」 現在もこの気持ちは、変わりません。 そのくらい、この仕事が好きであり、新しい物を作り出すことが楽しいんです。 新人さん達もいまは、現場に入っても、何もできずつらいかもしれない。でも、自分ができることが増えていくにつれ、楽しくなってきて、自分が役に立っている実感が沸くつれ、徹夜も辛く無くなっていくと思います。どうか、そこまで頑張ってください。

■ありがとうございました!! 30周年企画 来月からは、エムジェイの社長の「編集業界今昔物語」が始まります。どうぞご期待ください。

森田社長のポスプロ業界今昔物語 vol.1

 

MJは、来年創立30周年を迎えます。
同時に社長の森田文雄が業界にデビューしてから約45年の月日がたちました。
社長が歩んできたこの年月こそがポスプロ業界の歴史とぴたりと重なります。
今回からMJ30周年企画の一つとして、社長の語るポスプロ業界今昔物語を連載していきます。

その頃まだ生まれていなかった方も、業界で活躍していた方、今現役の方、そしてこれからこの業界を目指す方にも 興味深く楽しい内容になっていますので、どうぞ沢山の方に読んでいただきますように 宜しくお願い致します。
インタビュアーは、MJの北澤孝司 取締役映像技術部部長です。

北澤部長のインタビューに答える森田社長

■ 業界デビューから日本初のポストプロダクション パールスタジオ入社まで ■

1977年 パールスタジオ入社
ーフィルム編集からビデオ編集へ 編集方法の大変革期ー

■北澤部長
今回社長の業界での歴史についてお話しをうかがいます。 社長が日本初のポストプロダクションのパールスタジオに入社したのが1977年だそうですが、 私は1976年生まれなんです(笑) これからのお話は、当然私の知らない話も知っている話もたくさん出てくると思って楽しみにしています。どうぞ宜しくお願いします。 では、まずは 社長がパールスタジオに入社する1977年以前の業界はどんな感じでしたか?

■社長
ビデオ編集はごく一部でしか行われていなくて、編集といえばフィルム編集だったんです。私も学生時代にフィルム編集のアルバイトをやっていました。NHKの「若い広場」というドキュメンタリー番組の編集アシスタントで、そこで編集の基礎を勉強させていただきました。その時に先輩から、「君はまだ若いんだから こんなところにいちゃだめだよ!これからはビデオの時代!」と何度も言われました。

その後にアオイスタジオという老舗のスタジオにバイトに行くようになって、当時大人気だった大映TVの「赤いシリーズ」の編集アシスタントをしていました。 その時たまたま、Uマチック3/4インチのビデオ編集スタジオがアオイスタジオにできて、上司に「君はビデオに興味があるみたいだから、ビデオ編集をやらないか?」と誘われたんです。ただそのスタジオは、今思うとすごく原始的で。現在、コンピューターがやっている事は全部人間が手作業でやるようなスタジオでした。

北澤さんと談笑する森田社長

■北澤部長
それでもフィルムと比べたら便利なところがあったんですか?

■社長
いやいや。フィルムと比べたらなにもかも圧倒的に不便でした(笑)
当時はもう、フィルム編集は完成の域に達していて今のノンリニア編集と同じでした。 特に音と映像を別々に編集できるのが便利でしたし、尺調も自由自在でした。
1976年位から、ビデオ編集機も進化してきて、電子編集機が登場してきました。 ただ、コンピューターを使っているわけではないので精度も悪く、電気編集機という感じでした(笑) まだタイムコードもなく、CTL信号を利用していたので、正確な尺出しに苦労しました。 そして、 1977年に運命的な出会いがありました。たまたま来社していた東洋現像所(現イマジカ)の方が、「今度、神楽坂に、パールスタジオという最新式の編集スタジオができるから、そこで働いてみないか」と言われて面接に行くと、即、採用になりました。

■北澤部長
即、採用ですか!試験もなしで?

■社長
はい、社長とチョコチョコと話しして、じゃあ、明日から来て!と言われまして。 当時は就職氷河期で、どこも正社員としてやとってくれなかったから嬉しかったですよー 同時に東洋現像所の威力ってすごいなあと思いました。

■北澤部長
当時から社長は、新しいことが好きだったんですか?

インタビューに答える森田社長

■社長
ビデオ編集って、当時からカッコ良かったんです!スイッチャーなんかピカピカとランプが沢山ついて、ボタンがいっぱいあって、飛行機のコックピットみたいでワクワクするんです。 それに比べて、フィルム編集室は古色蒼然としていて居心地が良くなかったんです。 パールスタジオに入社して、これからの時代はビデオ編集だと確信しました。そして新しい事にチャレンジする事がとても楽しみでした!

と、こんなところで第二回に続きます。
次回は、期待に満ちて入社したパールスタジオで、待ちうけていたとんでもない事態が?!衝撃的な展開にご期待ください。 11月28日頃、掲載予定です。

森田社長のポスプロ業界今昔物語 vol.2

 

■ 当時の編集システムは?ー2インチVTRから1インチVTRへー ■

1977年 コンピューター編集機の出現

■北澤部長
社長が初めて入社したパールスタジオってどんな会社だったんですか?

■社長
面接で初めて訪れた時には驚きました!!もっと小さな所だと想像していたのに、地上8階、地下2階のレンガ作りのおしゃれなビル。ロビーに巨大なシャンデリアがあったのを覚えています。 なんでも大阪朝日放送の関連会社だったそうで、社長や幹部は 朝日放送からの出向でした。
初出社の頃には、スタジオも急ピッチで工事が進んでいました。 地下には、MA室とフィルムダビング室、地上には1インチVTR編集室、3/4インチVTR編集室、撮影用のスタジオ、他に2インチVTR、テレシネ等がありました。着々と上物は、立派なスタジオが完成しつつあるのに内部には、ひとつ大きな問題がありました。 それは‥‥ なんと!!現場の人間は私ひとりだけだったんです! だから、辞令番号も0001 です。
技術的な相談ができるのは、朝日放送から出向していた高齢の技師長だけ。 でもビデオ編集のことは、全く経験がないという方で。ほとんど何も相談ができませんでした。これでこの先、一体どうなるんだろうかと不安でたまりませんでした。

■北澤部長
その当時、他社のスタジオはどうだったんですか?

■社長
東洋現像所は(現イマジカ)は、すでに2インチVTRの編集をやっていました。 ただ、コンピュータ搭載の本格的な電子編集機と1インチVTRを導入し、池上通信機のMAVTRで音声を処理できる いわゆるポストプロダクションは、パールスタジオが最初だと記憶しています。

1インチVTR BVH-1100(SONY)
1インチVTR BVH-1100(SONY)

■北澤部長
ということは、社長はどこからも情報を得ることができなかったんですね!

■社長
そうなんです!何処からもだれからも教えてもらえず、情報もなく、もう覚悟を決めてやるしかなかったんです。新しいこと大好きの私ですが、いくらなんでもこれは新しすぎでした!(笑笑)

■北澤部長
その最新の機材のラインナップを教えてください。

■社長
編集機は、米国データトロン社のビデキュー7620 国内初号機です。それに接続されるVTRは、ソニーの1インチVTR、BVH1000が 三台。編集室用にCフォーマット、1インチVTRが導入されるのは初めてです。 あと面白いのが、DVEデジタルビデオエフェクトです。 これはその後にポスプロのメイン機種になるNEC製ではなく、松下製でした。 スイッチャーも松下製でしたが、編集室で使用するにはもの足りませんでした。

タイムコードの運用

■北澤部長
その中でも画期的だったのは、タイムコードを使用する編集機データトロン ビデキュー7620でしょうか?

■社長
そうですね!でもね、同時に大きな問題もかかえていたんですよ。当たり前のようですが、タイムコード編集機はタイムコードがないとなにもできないのです。しかし、当時はタイムコードの知識が誰にもありません。輸入元の大沢商会に問い合わせても誰もわからないし、取説は全部英語(笑)そもそもお客様には、タイムコードの概念が全くありません。「今までは、タイムコード(TC)なんか入れなくても編集できたのに、お宅に来ると、TCとかいう訳のわからないものを入れないと作業ができない。どういうことなんだ!」という感じで怒られたり 『受けテープにもTCをいれるので、(いわゆるシンク入れ)事前に必ずテープを搬入してください」と何度も何度も伝えても守ってくれるお客様は誰一人いませんでした。 編集作業当日にテープを持ってきて、「じゃあすぐに編集しようか」 って言われて、それは不可能なので、これからシンク入れに1時間ほどかかりますと伝えると激怒されました! さらに素材テープにもTCが入っていないことがほとんどで、テープの数だけ待ち時間がかかるわけです。 もうそのころには、お客様は呆れ返って帰ってしまうこともたびたびでした。

卓の横でインタビューに答える森田社長

■北澤部長
大変ですねー当時は収録した素材にもTCが入っていないということですね。 それで、あとからTCだけをいれることはできたんですか。

■社長
はい、BVH1000は、後からTCをインサートできました。 また、当時のTCは、ノンドロップフレームしかなかったんです。ドロップフレームが できるのはもう数年後になります。 ですから、1時間番組でTCの表示は、3秒以上ずれが生じるわけです。それを実時間に換算するのも面倒ですし、それをお客様に説明するのはもっと大変でした。 さらに当時のTCは、VTRテープの走行中にしか読めないんです。ですから、テープを止めてinポイント等のキューを打つことが不可能でした。VITCが発明されるのは、もっと後のことです。 こんな不便なタイムコード(TC)って一体何の為にあるのか大きな疑問でした。

■北澤部長
しかしこのあと、急激にタイムコードが認知され、普及していくわけですよね。

そうです。1978年から1979年は爆発的にポスプロが増えていく時代です。

■その驚きの理由は、また次回のお楽しみ。 次回は、12月9日頃掲載予定です!

森田社長のポスプロ業界今昔物語 vol.3

 

■ ポスプロ元年到来 そして最盛期を支えてきた機材達 ■

1978年~1979年 多くのポスプロが東京に進出

■北澤部長
ポスプロが急激に増えた理由はなんでしょうか?

■社長
1978年から1979年は、あれよあれよという間に、1年間に20社以上が東京に進出したんじゃないかと記憶しています。 まさに、ポスプロ元年と言っても過言ではないでしょう。面白いことに、放送業界以外の多種多様な業種の方が参入してきました。それだけ注目もされていたし、今とは比べ物にならないくらい時間単価が良かったんですよ。事実大変儲かったんです(笑笑)

■北澤部長
それで一気に箱(スタジオ)ができたんですね。その時代に戻りたいですね(笑)

■社長
同じような箱が短時間で爆発的に増えましたが、機材に関してはまだ統一感がなく、どこもバラバラでした。まさに、百花繚乱で各社大変個性的でした。

■北澤部長
先ほどのパールスタジオの話の中では、意外と国産の機材が多く採用されていたんですね

■社長
1977年頃は比較的国産が多かったんですが、1979年ごろになると、どんどん海外製の機材が入ってきました。 1980年代に入ると、更にその傾向が強まりましたが、同時に特定の機種やメーカーに淘汰されていきました。
スイッチャーは、グラスバレー社GVG1600シリーズ(後にGVG300)に統一されていったような気がします。 DVEは、アンペックス社の名機ADOが出現する以前は、 国産のNEC製が多かったと記憶しています。 ただ、VTRに関しては、ソニーとアンペックスで 二分していたと思います。 代表的なものは、ソニーBVH2000とアンペックスVPR-2Bでしょうか。 個人的にはソニーBVH-2000 が安定した動作と使いやすさで好きでしたが、デザイン的センスは常にアンペックスが勝っていたと思います。 特に2インチVT R時代のAVR3は、その未来的なデザインと美しさで、私の永遠の憧れです。 編集機は、CMX社のCMX300シリーズでしょうか、これも名機です。後の編集機に多大な影響を与えました。この時代の編集機材は、革新的な物が実に多いんです。 GVGもAMPEXもSONYもみんなそうです。

NEC-DVE
NEC-DME2 デジタルビデオエフェクト
BVH-2000 SONY
SONY BVH-2000 1インチVTR

AMPEX-AVC31-videoスイッチャー
AMPEX-AVC31-videoスイッチャー
ANPEX-ADO3000
ANPEX-ADO3000
■北澤部長
そう考えるとCMXの名前は、つい10年位前まで、EDLのフォーマットとして残ってましたね。凄いことですね! EDLフォーマットとしては世界標準だったんですね。

■社長
そうですね。ただCMXはよく故障もしたんです。大袈裟にいいますと、稼働している時間より、修理に出ている方が多いような・・・ その点、SONY BVE9000は、丈夫で安価で滅多に故障しませんでした。 欠点は操作レスポンスが悪くイライラしたことです。 ここは、CMXに遠く及びませんでした。 その後、BVE-9100になり、レスポンスは改良され、とても良い編集機になり、私も長い間愛用しました。国内の編集室はほぼ、BVE-9100になっていったと思います。

森田社長のポスプロ業界今昔物語 vol.4

 

■ 数々の人気番組を手掛けたパールスタジオ時代の裏話 ■

1977年~当時の担当番組と働き方

30周年企画社長インタビュー「ポスプロ今昔物語」もいよいよ佳境に入ってきました。
今回は、機械のお話はちょっとお休みして、当時担当していた番組や斬新な音楽番組のスタート時の話、一徹二徹は当たり前だった当時の働き方などについて語っています。
現在では考えられないような話が沢山出てきます。どうぞお楽しみください。

■北澤部長
当時社長はどんな番組を担当していたんですか? 当時のエピソードなども聞かせてください。

■社長
入社してすぐに担当したのが「花王名人劇場」(フジテレビ系毎週日曜夜9時から)です。お笑い系バラエティー番組です。ツービートや紳助竜助などを輩出し、その後の漫才ブームの火付け役になりました。
視聴率は、関西地方で、30%以上という驚異的な数字を叩き出しました。それだけに、出演者もスタッフも壮々たる面々で圧倒されました。何しろその中で私が1番若いんですから・・・

爆笑三冠王のテレビ番組の画像と視聴率の画像
(注1)

ダイマル・ラケットのおかしなおかしな漫才同窓会の視聴率の画像と絶好調!!オールスター上方漫才!の視聴率の画像 border=
(注2)

演出プロデュースの澤田隆治さんは、当時TV界の天皇と呼ばれていて、パールスタジオの社長も兼任していました。仕事に関しては妥協を許さない、大変厳しい方でしたが、不思議と私には優しく接して戴きました。怒られた記憶もほとんどありません。ただ、演出スタッフにはいつも厳しく、編集室の中で説教が始まるわけなんですが、それがとにかく長い!! 数時間に及ぶ演出論を聞いていなきゃならないんですが、私はそれが嫌で嫌で(笑) でも、後から考えるとそれが私にとって、どれぼど役にたったことか!今は感謝しかありません。

■北澤部長
一本の編集時間はどのくらいだったんですか?

■社長
長かったですよ~どのくらい徹夜したかわからないくらいです。最長、1週間徹夜したことがあります。
その時は幻覚までみました。一台しかないモニターが何台にも見えるんですよ!こんなにはっきり見えるんだって、意外と冷静に思っていました。
ひどい時は一ヶ月家に帰れない!とうとう父が会社に怒鳴り込みに行くと言い出しまして、カッコ悪いからそれだけはやめてくれと、必死に止めたことを記憶しています。

■北澤部長
それだけ長時間働いてるわけで、さぞかし給料も良かったんでしょうね〜

■社長
それが〜猛烈に安かったんです(笑) 残業代も、交通費も食事代も何もなし!もちろん、ボーナスも無しです。
今なら労基がすっ飛んできますよね(笑) ただ私は実家から通ってましたから、給与面での不満ってほとんど感じていませんでした。

■北澤部長
それ以外に担当されていた番組はありますか?

■社長
テレビ東京で「日立サウンドブレイク」「パイオニアステレオ音楽館」などの音楽番組を担当させていただきました。実はお笑いがあまり好きではなかったので嬉しかったです!
パイオニア〜は、テレビ東京初のステレオ放送でした。1インチVTRが出現し、音声チャンネルが2チャンネルになったことで可能になった番組です。デビュー当時のサザンオールスターズなどが出演していた新しい感覚の音楽番組でした。
「日立サウンドブレイク」も斬新でした。音楽に合わせて映像を自由に編集できる現在のPVに通じるものがありました。最近、日本のシティポップスの関心が世界に高まり、当時の映像がYouTubeで視聴できるようになりました。松原みきの「真夜中のドア」なども人気のようです。嬉しいですが若気の至りで、恥ずかしくもあります。

(注1)澤田隆治「花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ」、レオ企画、1981年2月 右:3ページ 左:242ページ

(注2)澤田隆治「花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ」、レオ企画、1981年2月 右:246ページ 左:244ページ

森田社長のポスプロ業界今昔物語 vol.5

 

■ 高視聴率の秘密と驚きの編集スタイル ■

■北澤部長
社長が携わった番組は、高視聴率のものが多かったですよね。 何か特別なコツがあったんでしょうか?

■社長
そんなものがあったら教えてほしいくらいです(笑)。ただ、長年の経験から法則のようなものはあるかな〜と感じています。
高視聴率だった番組は、編集段階で必ずといっていいほど揉めます。現場は険悪な雰囲気に包まれ、リテイクの嵐!何回も手直しがあって、その度にテープダビングを重ねますから、画質はボロボロ。アナログ1インチテープで8回から10回もコピーを重ねるわけですから、最後にはVHS並みの画像になってしまいます。
エディターという立場からは、確実に面白い物になっているのでしょうが、反面、技術者の立場では耐えられないクオリティです。このジレンマが常に付きまとうわけですね。こうやって揉めに揉めた結果、納品はいつもオンエアーぎりぎり。精神的には極限状態ですが、こうして完成した作品は、いつも必ず高視聴率でした。

反対に、一発でOKが出て高画質が保たれた作品で、いい結果が出たことは一度もありません。そして企画段階から、高画質、高音質を謳った番組は、およそ視聴率は、惨憺たるありさまでした。あくまで私の経験上ですが、このように画質と視聴率は反比例する関係のようですね。(これはあくまでアナログ時代の話で、私の主観ですので、話半分できいてください笑)

あと、技術的には画面を暗くしないように、コントラストも強くならないように心掛けていました。少し浅い画面の方が良い結果になっていたような気がします。テロップや特殊効果もあまりに都会的なおしゃれな感じを強調しすぎると、途端に数字が下がるような気がして、どこかに親しみやすい雰囲気を残すようにしていました。

■北澤部長
当時の編集作業と、現在の作業、何か違っているところはありますか?

■社長
今はオフライン編集はディレクター任せで編集マンはほとんどやりませんよね。当時、VHSや、ましてやパソコンもなかったので、オフライン編集はほとんどできませんでした。だからこそ、純粋に編集の能力が求められました。スタジオの中で、オフラインとオンライン編集を同時に行うわけです。私は学生時代に演出の勉強をして、エディターとしてのアルバイトもしていたので、オフライン編集は得意でしたし、好きでした。

反対に特殊効果は苦手でしたね。当時のビデオ編集スタジオは、技術者的な編集マンがほとんどでしたから、エディティングを理解して、技術的なオペレーションもできる私のようなタイプは重宝されましたね。ですから素材テープを持ち込んで、簡単な番組趣旨を伝えて、あとはよろしく!!と私に 丸投げでMAまでスタジオに来ないディレクターも沢山いましたよ(笑)

でもとにかく、編集が大好きで勉強になることは何でもやりました。中継車でスイッチャー(TD)も経験しましたよ。生放送も舞台中継も何でもやりました。これはリアルタイム編集ですから(笑)
中継車の編集スタジオでの森田社長
舞台中継「ミュージカルアニー」日本テレビ中継車にて 当時30才 1986年頃

従来の舞台中継は、全体を見渡せるロングショット中心のカメラワークであったが、ここではドラマと同じようなカメラワークを求められ、膨大なカット割りと長時間におよぶ中継のため、カメラマンもスイッチャーを担当した私も大変な集中力を必要とした。
「若かったからできたんだなぁ 今じゃ、とてもとても…」

森田社長のポスプロ業界今昔物語 vol.6

 

■ 画期的手法!同ポジ編集 ■

今回から、当時の画期的な 編集テクニックのお話です。
難しい用語がいっぱいでてきますが、現場の方なら理解できるはず。どうぞお楽しみください!

■北澤部長
ビデオ編集が劇的に変化したのはいつ頃ですか?

■社長
1978年ぐらいからかな? タイムコードが使用されるようになって、誤差0フレームの同ポジ(マッチフレーム)編集が可能になった時からです。でも、当時は、同ポジ編集がとても嫌われていました。
一見綺麗につながっているようでも、実は、編集点の信号は乱れていて、タイムベースコレクター(TBC)で補正しているだけなのだ、という意見が大半を占めていました。

ただ私は、同ポジ編集が何もかもうまくいくようになる画期的な技法になると確信していました。何よりトランジションエフェクトのMIXやWIPE やDVEのやり直しが何度もきくようになりますし、納得がいくまで、いくらでもチャレンジできるようになるんです。テロップ入れも、自由自在にどこからでもインサートできて、後で修正も可能です。

■北澤部長
そんな画期的な手法なのになぜ、そんなに嫌われたんでしょう?理由は何でしょうか?

■社長
タイムコードが運用されるようになって間もない頃ですから、カラーフレームの概念がまだ浸透していなかったり、TBCの性能が低かったりして、編集点で水平方向に画がズレたり、ノイズが出ることもあったからです。
余談ですが、フィルム時代の古い日本映画では、ワイプやディゾルブ等のトランジション前後で画面がひどく乱れる事があります。
理由は、画質保持のためトランジション区間のみオプチカルプリンターで、加工した低画質のフィルムを使用し、あとは同ポジ編集をしてオリジナルネガのフィルムに戻しているからです。
その編集点で揺れたり、ノイズが出たり大きく画面が乱れるわけです。
そのトラウマなのでしょうか。現像所出身のビデオ編集マンは同ポジ編集をひどく嫌っていました。

話をもとに戻します。

当時MIX(ディゾルブ)等のトランジションエフェクトを連続して行う場合は大変でした。
A、B 2本のやりくりテープを用意して、それぞれタイムラインに沿って、交互に素材をダビングして、2台のVTRを同時に走らせて、カット編集ポイントまで一気にスイッチャーのフェーダーを操作して、トランジションするしか方法がなかったんです。生放送のように、途中でミスしたら初めからやり直しです。とても緊張するやっかいな作業でした。

同ポジができるようになると、片方のBロール側だけをやりくってOL、そこで同ポジで切って、また次の素材を見つけてOL、そこでまた同ポジを切ってBロールにやりくって、といったように無限にエフェクトをかけられるんです。
しかも何度でもやり直しができます。 画質的にも片方しかダビングをしないので劣化を避けられます。さらに編集設備のコストパフォーマンスも向上します。

当時、DVE(デジタルビデオエフェクト)は、大変に高価で、スタジオに1台(1ch)が普通でした。2台(2ch)を持っているポスプロは、かなりのお金持ちだったんです。でも、同ポジ編集ができれば、たったの1ch(1台)でも次々とエフェクトを繰り出すことができるようになります。さらに、じっくり時間をかけて試行錯誤できるようにもなるんです。

■北澤部長
自分がこの世界に入った頃は、もう同ポジ編集は当たり前でした。それができない時代があったことが驚きです。

■社長
同ポジ編集に対する自分の考えが間違っていないか確かめようと思い、とあるポスプロの偉い方に相談したことがあるんです。でも、にべもなく否定されてしまいました。「それをやっちゃいかん。絶対にいかん。邪道な方法だ。」って。

■北澤部長
いつの時代にもいますね。そういうことを否定する人が。

■社長
でもやっちゃいました(笑笑) だって、モニター上では何の乱れもなく、綺麗につながっているんですから。しばらくして、技術的な裏付けがほしくなって、VTRのメーカーの方に相談もしてみたんですが。「あなたの話はさっぱりわからない。それにどんなメリットがあるか理解できない」ってね。

■北澤部長
これって、現場に出ている編集マンでなければ理解できないですよね。ところで、実際に同ポジ編集を実行してみて、お客様の反応はどうでしたか?

■社長
テロップ入れなんかも当時は、カット編集点までノンストップで一気にいれていましたから。生放送のようにね。それを途中で止めちゃうんですから怒られました。「あと一枚なのになんで止めちゃうんだ。」ってね。
白一色のテロップをフェードイン、アウトしているだけじゃつまらないじゃないですか。色やエッジや出し方も工夫したいけれど、リアルタイムでは操作が間に合わないから入れられない。でも、途中で中断できればいくらでも凝ったテロップを入れられるんです。
ただ、お客様は知らないから怒り出す。 そこで「大丈夫です。ここから同ポジでつないで再開できます。」と伝えて実行すると、みんなポカンとした顔して驚いてました。信じられないってね。ここからです。ビデオ編集に革命がおきたのは。同ポジ編集なくして、いまのビデオ編集の進化はなかったと断言できます。

■今回のお話はいかがでしたでしょうか? 次回は当時のテロップ入れとMAの話です! 2月下旬の掲載予定です!

森田社長のポスプロ業界今昔物語 vol.7

 

■ ハサミとノリのテロップ編集からデジタル編集への大変革期 ■

■北澤部長
当時テロップはどうやって入れていたんですか?

■社長
今のようにTFXやフォトショップはありませんから、テロップは黒い紙の上に白い文字を写植した専用のテロップカード(注3)を使用していました。

1970年代のポスプロの編集作業で使用されたテロップカード
(注3)ハサミとノリはアシスタントの必需品。素晴らしい職人芸に魅了されました。

ごく初期の頃は、そのカードを台において、ビデオカメラで撮影してスイッチャーで合成していました。ただ、この方法ですと、連続してすばやくテロップを出せないため、テロップ撮影専用の機材、いわゆるFSS〔フライングスポットスキャナー〕(注4)が開発されました。
代表的なメーカーは、池上通信機と興和です。このマシンにテロップカードを入れて「ガシャン、ガシャン」と音をたてて数十枚のテロップを連続して送出できるようになったのです。

FSS(フライングスポットスキャナー)
(注4)フライングスポットスキャナー
フライングスポットスキャナー
(注4)右と左下はフライングスポットスキャナー、左上はテロップ撮影専用のカメラ台

しかし、編集方法は依然として生放送のように カットからカットまでリアルタイムでノンストップで入れていく原始的な方法でした。 途中で色を変える時間的な余裕もないし、まして特殊効果などを加える余裕など全くありませんでした。
先に申し上げたように、同ポジ編集が可能になって、はじめて1枚1枚のテロップに色やエッジやエフェクトを加えることが可能になったのです。 もちろん、編集後にテロップ修正もできるようになりました。なにしろ、それまでたった1枚のミスがあれば、全てのテロップをやり直す必要があったわけですから、驚異的な進歩です。 白素材(テロップを入れていない編集完パケ)を作成するスタイルもこの頃から確立されていったように思えます。

白素材と同ポジ編集ができることで、テロップの修正箇所の素材をわざわざ探す必要もありませんから、非常に作業効率があがりました。 と同時に、この事で番組のテロップの数が劇的に増加したのです。結果的に、編集作業時間は以前よりはるかに長時間になってしまいました。 その後、国内のテロップ入れは独自の進化を遂げていくのです。
ビデオトロン社に代表されるソフトエッジやシャドーエッジが自由に付け加えることができるキーヤー装置(注5)や、電子的に文字毎の位置や大きさを自由に変更できるTW428は、テロップ加工に革新的な進化をもたらしました。 それまでは、テロップカードをハサミとのりで切り貼りしていましたからね笑 これに関しては、ADさんや編集アシスタントさんの名人芸を何度も目の当たりにしました。

キーヤー装置
(注5)VIDEOTRONのキーヤー装置

森田社長のポスプロ業界今昔物語 vol.8

 

■ 人間シンクロナイザーって何!? ■

1978年〜1983年頃 MAの達人たち

■北澤副社長
当時のMAはどんな感じでしたか?現在との違いは何ですか?

■社長
わたしがパールスタジオの入社した1978年当時は、有名な池上通信機のMA VTR「TVR-602C」が初めて導入された頃です。
現在、わたしたちが、日常的にMAという言葉を使っていますが、このVTRの名前が語源なんです。マルチオーディオの略です。

池上通信機 MA VTR「TVR-602C」
(注6)池上通信機 MA VTR「TVR-62C」1977年製

とにかく巨体で、パールスタジオ導入時にエレベーターに乗らず、分解してスタジオの中で組み上げた。

■北澤副社長
へえー、そうなんですね。
確かMAというのは、日本だけのもので、海外ではMAと言っても通用しないそうですね。

■社長
そうなんです。MA VTRは、日本独自のシステムです。海外ではMA作業のことをオーディオスイートやオーディオポストプロダクションと呼ぶそうです。

■北澤副社長
MA VTRとは具体的にどんなものだったのでしょうか?

■社長
池上のMA VTRは、4チャンネルのオーディオトラックと映像が、2インチ幅のオープンリールテープに同時に収録できる画期的な製品でした。その音質は、2インチ幅のテープに、たったの4トラックですから大変に良かったんです。但し画質は良くありませんでした。でも、MAなので画質は問題になりませんでしたね。
ビデオトラックもありますから、映像と音声が完全にシンクロするわけです。
オーディオトラックには、現場収録音、音楽、効果音、ナレーションですでに4チャンネルを使い切ってしまうので、最終ミックスはVTRに戻す時に直に行っていました。
ですから、60分番組などの長尺物の音戻しは、大変な緊張感が漂うなかで、ミキサーの方が器用にフェーダーを操作して、一気にミックスをして、VTRに音戻しをする光景を何度も目の当たりにしました。

■北澤副社長
社長は結構音に詳しいですよね。当時は編集マンにも音の知識が必要だったんでしょうか?

■社長
現在のようなプロトゥールスに代表されるようなDAWの出現は、まだまだ後のことですから、当時のMAでは、細かい調整は大変に難しいことだったんです。
ですから、私は編集時にできる限りの整音をするように心がけていました。
編集点の音量差などは、MA時には簡単に補正できませんから、カット毎にミキサー卓で調整をして、慎重に編集していくわけです。
だから、当時の編集室は、スピーカーやミキサー卓もとても良い物を揃えていましたし、編集マンにも音の知識は必須でした。

そしてミキサーの手をわずらわせずに、できるだけ作業時間を短縮できるように編集しておくことが、ビデオ編集マンにも求められました。
実際に私も、編集ポイントの音をクロスフェードやフェードアウト、フェードイン等で処理し、必要のない現場音は、無音にするか、ナレーションが引き立つように小音量にしておくことを心かけていました。ですから、完成時には、ディレクターやMAミキサーから随分と褒められた記憶があります。
現在は編集時に、音の方は全く手をつけないそうですから、隔世の感がありますね。

話が少し逸れますが、MAの現場では、編集作業のことが話題になることが多く、MAの作業時間がオーバーすると、「編集マンが下手だから、こんなに手間がかかるんだ!」と、散々けなされるわけです。
また、編集スタジオの中では、「カメラマンがへぼだからうまくつながらない」とカメラマンがやり玉に上がるわけです。一つ前の工程が必ず悪者になるんです。今もそうでしょうか(笑)

■北澤副社長
これまでの話はモノラル時代のことですよね。ステレオ放送が開始されると、MAシステムもかなり変化したんでしょうか?

■社長
1980年頃になると、1インチVTRが普及し始めて、音声は2チャンネル収録できるようになり、ステレオ放送時代の幕開けとなるわけです。
こうなると、それまでのMA VTRでは、チャンネル数が足りなくなりました。8チャンネル使用のMA VTRも登場しましたが、複雑化する音声処理の前では、すぐにチャンネル数が足りなくなり、新たな方法でのMAシステムが求められるようになりました。
コンピューターとタイムコードを使って、音声のMTR(マルチトラックテープレコーダー)と映像のVTRを同期させる画期的なシステムの登場です。
代表的な機材は、MTRがスイスSTUDER社の「A-80」、VTRがSONY Uマチック「BVU800」あたりでしょうか。

シンクロナイザーはというと、実は良くおぼえていなくて、アダムスミスの「SYSTEM2600」あたりでしょうか?国産にも良い製品がいっぱいありました。このようなシステム構成で、チャンネル数は16チャンネルや24チャンネルと飛躍的に増大していきました。
ただ難点はシステムが非常に高価だったことです。ですから、当時私が担当していた「パイオニアステレオ音楽館」では、MAスタジオを使用せず、編集室の中で、編集と同時に音楽や効果音を入れてしまう大変に経済的な方法がとられていました。
このやり方が実にすごいんです!
なんと人間が手動で、音楽をシンクロナイズさせるんです。まさに、人間シンクロナイザーです。

■北澤副社長
それはどういうことですか?
コンピュータもタイムコードも使わないで、そんなことが可能なんですか?

■社長
音楽の音源は6ミリのテープレコーダーです。当時の編集室の中には必ず一台ありました。そこから手動で、playボタンを押して再生するわけですが、なんと編集プリロールの5秒間で、手動でシンクロさせていくわけです。編集作業ですから、カット毎に、VTRは停止します。数秒間の短いカットもあります。でも、 VTRが再生されると、何事もなかったかのように手動でシンクロさせます。
これは音響効果の小関さんという方の凄まじい反射神経の神わざでした。
わたしもマネをしようと、猛練習をして頑張りました。ひょっとすると、今でもできるかもしれません。

DENON(デンオン) オープンリールテープレコーダー「DN-3602RG」1988年製(社長所有)
DENON(デンオン) オープンリールテープレコーダー「DN-3602RG」1988年製(社長所有)

MAスタジオの定番。どこのスタジオにも必ず2~3台は置いてあり、音効さんが音楽や効果音出しに見事な手つきで操作をしていた。使い勝手ならデンオン、音質優先ならスチューダーのデッキが選ばれていた。
※DENONの当時の呼び方は「デンオン」現在は「デノン」

■北澤副社長
信じられないようなお話ですね。他にもスゴ技を持った方はいらっしゃいましたか?

■社長
小原さんというパールスタジオの年配のミキサーさんも驚異的なスピードで、6ミリテープの編集ができるんです。
私が当時担当していた「日立サウンドブレイク」で使用する音楽の編集をお願いしたんですが、瞬く間に1秒の誤差もなく、音楽的にも完璧に編集してくれたんです。
それも、ハサミとスプライシングテープを使った手切りです。そしてそのハサミがなんと糸切り鋏なんです!
私などが糸切り鋏を使うと、鉄製なので、編集点に「ブッ!」というノイズが入ってしまうのですが、小原さんが使うと全くノイズが入りません。
不思議でした。当時はこんな達人がいっぱいいました。
とても勉強になったし、いい思い出です。

糸切り鋏
糸切りバサミ

THORENS(トーレンス)「TD127」レコードプレーヤー(社長所有)
THORENS(トーレンス)「TD127」レコードプレーヤー(社長所有)

当時の音楽素材はレコード。まだCDも出現していなかった。音効さんは、重いレコードを大量に担いでスタジオに入った。写真は業務用ではないが、雰囲気は伝わると思い掲載した。

THORENS(トーレンス)「TD127」レコードプレーヤー(社長所有)
SME3012 トーンアームに取り付けられた DENON DL-103 MCカートリッジ(社長所有)

レコード針のついたカートリッジは、放送局用MCカートリッジの定番、DENON「DL-103」だ。1964年に開発され、今でも販売されている超ロングセラー。

(注6)VIDEO SALON.web 池上通信機が作ったMAのVTRとAMPEXの2インチ